「まあまあ・・・。わかってますよ、 奥さんが大の虫嫌いだということ は。明日になったら、きっと家中 に毒ダンゴと殺虫剤をばらまくだ ろうということもね。しかし、残念だ なぁ。」 　男は、大げさにため息をつきました。 　「ここを離れるのは、実に残念です。 　奥さん、今晩の鮭のムニエルに添えた 　レモンソースですがね、ありゃあなかなか 　でしたよ。われわれは、一流レストランの 　厨房に顔がききますからね、ちょっとした 　グルメなんですよ。いやあ、奥さんは実に 　スジがいい・・・・・・。」 　「悪いけど、あなたにほめられても、全然 　うれしくないわ。」 　私は、冷たく言い放ちました。 　「ごもっとも・・・。しかし、われわれがこの 　お宅を離れがたい理由は、他にもあるん 　です。」 　男は、じっと私を見つめると、突然片手を 　まっすぐに振りあげ、腰をくねらせました。

「タンゴです！奥さん、お宅では毎晩、 　アルゼンチンタンゴが流れるでしょう？」 　「私の趣味じゃないわ。夫は好きみたいだ 　けど、何だか暑苦しくて・・・・・・。」 　私は、肩をすくめました。男は、踊りながら、 　うっとりと語り始めました。 　「はっきりとはわからないのですが、どうやら 　われわれの祖先は、遠く南米からやってき 　たようなのです。きっと何かの積荷とともに、 　海を渡ってきたのでしょう。 　つまり、われわれは移民なのです。 　アルゼンチンタンゴを聴くと、なつかしいもの 　がぐっとこみあげてきて、じっとしていられなく 　なるのです。」 　男は、あざやかにターンをすると、今度は 　ぐいと私の方に、身をのりだしました。 　「お願いがあります。明日の晩、ここで 　”アルゼンチンタンゴの集い”を開いていた 　だけませんか？」